『三国志』の時代の村・「里」

はじめに

今回は、『三国志』の時代の
村とその生活空間についての御話。

以降、何回かに分けて綴っていきます。

因みに、章立ては以下。
本文は4000字程度になってしまったことで、

興味のあるところだけでも
御目を通して頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、流亡も旅路
2、可愛い英雄には旅をさせよ
3、定住の地の大小
4、最小の居住地「里」とは?
5、限られる移動手段
6、買い物の生活も徒歩の圏内
7、役人の来ない「里」と
  有象無象が集うアジール・山林叢沢
おわりに

 

 

1、流亡も旅路

さて、高校で世界史Bを履修された方は、
漢代の地方自治制度である「郡国制」
というのを多少なりとも記憶されているかと
思いますが、

当時、平民として少ない資産で
慎ましく生活する分には、

何事も無ければ、
自分の住む郡や国の境界線をまたぐ機会は
滅多に無い「筈」でした。

なお、この時代のは、
中国の東半分のごく限られた地域でして、
小さい郡程度の面積です。
皇族が治めます。

ところが、
3世紀という時代自体が
平均気温が3℃下がるという気候の大変動期であり、

そのうえ、三国志関係の戦乱や
それに先立つ羌族の反乱等に起因する
戦禍の規模がシャレにならなかったことで、

従軍に加えて飢饉・略奪・権力による強制移住等
貴賤を問わず数多くの民がそれまでの住処を追われて
難民のような流亡生活を強いられた時代でした。

長安からの移民で構成された
劉焉直属の「東州兵」など、
恐らくはそうした流民の典型だと思います。

こういう状況を反映してか、
前近代の社会においては
旅≒戦争という認識がありまして、

これは何も、
中国に限ったことではなく、

例えば「旅団」だとか、
旅と軍隊生活が結び付く言葉が存在する理由は
こういうところにあるように思います。

 

 

2、可愛い英雄には旅をさせよ

もっとも、割合ポジティブな旅もあります。

例えば、
行商が生業であれば
旅そのものが生業ですし、

資産家の子弟や高級官吏にでもなれば、
都会への遊学、地方官就任や監察等によって
旅行する機会を得ます。

また、色々あって盗賊にでもなれば、

触法行為である乗馬は元より、
隊商を襲ったり、官憲から逃げ回ったりして、
必然的に行動範囲が広くなりまして、

そういう意味では、
同じ旅でも戦争・戦災以外にも
色々ある訳ですが。

で、行商・遊学・地方官就任・逃亡生活、
そして従軍・戦災―、

因みに、侠の世界に片足を突っ込んで、
戦災に遭う以外は全てやったのが劉玄徳。

もっとも、陣中で食糧不足で人肉を喰うような
戦禍レベルの悲惨な負け戦は
何度も経験しています。

こういうあらゆるタイプの旅を実践した
豊富な人生経験も、
英雄の資質のひとつなのかもしれません。

 

 

3、定住の地の大小

さて、今日の感覚とは異なる
ブッソウな三国の時代にもかかわらず、
従軍以外にも旅をする人がいる―、

何だか、
ダブル・スタンダードで
見えにくい話ですが、

その実相に少しでも近く迫るためには、

そもそも、人々がどのような空間で生活していたか、
ということを知る必要があろうかと思います。

それでは、早速ですが、
以下のアレなイラストを御覧下さい。

 

早い話、当時の人口の大半であろう農村の中国人は、
イラストにあるような
「里」という集落で生活していました。

この単位集落の集合体が「郷」であり、

さらに「郷」でも規模の大きいものになると、
県や郡の県令や太守の所在地「治所」と言います)
であったりする訳で、

都郷、あるいは県城と言います。
郡の治所も、こういう拠点です。

こういう集落の集合体の最大の部類が、
邯鄲や臨淄等の戦国の王都でありまして。

 

ここで少々整理しますと、

里・郷は居住区とその周辺の田畑の
ごく限られた地域。

対して、県・郡・国・州は、
山岳・河川・道路等を含めた
地図で区分出来る広域的な領域を意味します。

―サイト制作者の理解が間違っていなければ。

 

【追記】

「郷」も「県」と同様、
居住区とその周辺の田畑だけでなく、
地図で区分出来る広域的な領域を持っているようです。

サイト制作者の勉強不足で恐縮です。

 

4、最小の居住地「里」とは?

続いて、「里」の構造について説明します。

「里」『三国志』の時代を含めた
古代中国の村と言うべきものでして、

簡単に言えば、
大体100軒程度の密集した住宅を
土塀で囲ったものです。

土塀のような防御施設がないところも
ありますが、
住宅が密集している所謂「集村」である点は
変わりません。

また、当時は1世帯辺り、大体4、5名でして、

単純計算で
大体500名程度の居住区となりましょうか。

そして、こういう小規模な集落は、
大抵は道に面していまして、
その門を「閭(りょ)」と言います。

さらに、入ってからすぐ左の居住区
「閭左(りょさ)」と言います。

ここは、集落でも貧しい部類の人が住んだところで、
粗末な小屋が乱立していたそうな。

その他、貧しい人々の中には、
普通の民家の軒下で風雨をしのいだり
道端で寝転がる人もいたようです。

現在のホームレスの方々のいらっしゃる風景と
似たような印象を受けます。

 

 

5、限られる移動手段

また、仕事である田畑は土塀の外側にありまして、

男性の場合は、朝は土塀の外側で農作業に従事し、
夜には土塀の内側の居住区内に引き揚げます。

因みに、漢代に入ると牛耕が盛んになりましたが、

一方で、三国志の時代は戦争による消耗と徴発で
牛馬が著しく不足した時代でして、

また飼料どころか食糧にも事欠き、
家畜の飼育が農家の大きい負担でもありました。

その意味では、
農村の広汎な層が
耕作・移動・運搬に牛を利活用出来たか否かは、
大勢力の屯田でもなければ難しかったと想像します。

弱小貴族が馬の調達が出来ずに
牛車に乗らざるを得なかったのが当時の実情であり、

戦争では、
敵陣に向けて馬を解き放つ攪乱作戦が非常に有効でした。
敵兵が(高価な)馬の略奪を始めて隊列を乱すからです。

三国志の時代には、こういう策が何度も使われ、
これで足を掬われて戦死した筆頭格が文醜。

 

一方、外で働く男性とは対照的に、
女性の場合は
人前に姿を見せないのが建前でして、

当時の模範的な考え方としては
家内で生地の生産に励むことでしたが、
男性が従事した例も少なからずあります。

残念ながら、サイト制作者には、
農村の末端の社会での
女性の詳細なライフ・サイクルについては
現時点では分かりかねます。

恐らく、上流社会に比べて、
力仕事以外は男女兼用の仕事が多いという具合に、
臨機応変に対処していたように想像しますが。

 

 

6、買い物の生活も徒歩の圏内

さて、里の中で自給出来ないものに関しては、
外に買い出しに行くか、
または定期的に地元民の開く市が立ちます。
行商もこういうものに混じっているのでしょう。

言い換えれば、
「里」クラスの集落が単体で存在する場合は、
徴税・裁判の役人がいなければ
常設の市も存在しないのです。

 

ですが、先述の「里」の集合体である「郷」の中でも、
県の治所である「都郷」クラスであれば
常設の市があります。

因みに、県の治所ではない郷を「離郷」と呼びます。

では、自分の住む「里」から「都郷」
どれ位離れているかと言いますと、

余程峻嶮な地形か辺鄙な場所でもない限りは、
日帰りあるいは2日程度で往復出来る距離にあったと
思われます。

 

その理由はいくつかありますが、

例えば、当時の役人の生活サイクルは、

普段は郡県の治所である都郷の官舎で
単身赴任で生活し、

5日に一度は自宅に帰って体を洗う
というものでした。

また、当時の治安活動の末端拠点である
その責任者である亭長及び部下数名が、

郷の市場や道路網を中心に、
半径2キロの範囲で
面的に配置されていることです。

また、自治体である里と郷、軍事・警察拠点である亭、
この三者の数のバランスを考えても、

遠距離を思わせるようなバラつきが
見られないからです。

こういう徒歩の生活圏に根差した
治安当局の監視体制の存在は、

余程峻嶮な地形や
人の寄り付かない場所でもない限りは、

里や郷の住民にとっては、
最低限の生活物資が
近場で賄えたことを示唆しているように思います。

もっとも、強盗は頻繁に出没したそうですが。

なお、亭の話は、
詳しくは後日と致します。交通の話も含めて。

 

 

7、役人の来ない「里」と
有象無象が集うアジール・山林叢沢

 

また、里を構成する住民の内訳ですが、

里の長を「里正」
年配の指導層を「父老・父兄」、
働き手を「子弟」と言います。

さらに、官の政策の通達に関しては、
郷の指導層から受けることになります。

先述のように、里レベルの集落には
まず役人は来ないからです。

 

最後に、先述のイラストに出て来る「山林叢沢」ですが、
集落から外れた
人の寄り付かないところにあるのが御約束。

サイト制作者の育った団地の外れにも、
ゴミや廃車が不法投棄されているような
区画がありまして、

この時代同様、
開削中の山裾や雑木林であったりします。

他にも、大きい廃墟施設なんかもそうですが、
暴走族の方々等が
こういうところを拠点に使用する訳でして、

この辺りの感覚は、
時代が下っても変わらないものだと思います。

 

で、『三国志』の時代の話ですが、
そもそも漢の高祖様自体が
これを悪用して役人稼業を放棄したこともあり、
推して知るべしです。

王莽政権の時代辺りから武装村と化し、

三国志の時代には
北方では所謂「異民族」もこれに紛れ込み、

山賊の範疇には収まらない
後世の梁山泊も顔負けのカオスな状況を呈して
政権側を大いに悩ませます。

一方で、強兵の泉源もあったりしまして、
程昱なんか官渡の戦いの時期に、
こういうところでも募兵を行っそうな。

ですが、
その御話は長くなるので、また後日。

 

 

おわりに

例によって、
余分な話も随分混在して恐縮ですが、

ここで、今回の「里」の特徴について、
簡単に纏めます。

 

1、まず「里」とは、
三国志の時代を含む古代中国における
居住地の最小単位です。

 

2、大体100軒程度の民家が集中する居住区で、
土塀等の防御施設がこれを囲みます。

 

3、里は幹道等の道沿いにあり、
集落の入り口である閭は
道路に面しています。

また、閭を潜ってすぐ左側の居住区には
貧しい人の民家が集中しています。

 

4、田畑は土塀の周辺にあり、

住民は朝には塀の外に出て
日が暮れるまで働き、

夕方乃至夜には、
塀の中の居住区に戻ります。

 

5、里の統治者を「里正」と言います。

上位の居住区である「郷」の人間から
官の通達を受け、
居住区内の住民にそれを伝えます。

 

6、里で自給出来ないものについては、

常設の市場のある県城に買い出しに行くか、
定期的に立つ市を利用します。

 

そして、こういう居住区の集合体が「郷」であり、

「郷」の中でも規模が大きく交通の要衝であるところは
県の治所である「都郷」(県城)、
さらに大きいものになると
郡の治所さえ兼ねることになります。

 

 

【主要参考文献】
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
川勝義雄『魏晋南北朝』
西嶋定生『秦漢帝国』
西川利文「漢代における郡県の構造について」
『佛教大学文学部論集』81
小嶋茂稔「漢代の国家統治機構における亭の位置」
『史学雑誌』112 巻 ・8号
石井仁「六朝時代における関中の村塢について」
『駒沢史学』74
「黒山・白波考」 『東北大学東洋史論集 』9
宮川尚志「漢代の家畜(上)・(下)」

カテゴリー: 経済・地理 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です