はじめに
農民・土木関係の労働者・職人(工員)・兵士、
あるいは盗賊(一部は、実は土豪だったりする)の類、等々、
という具合に、
恐らく、当時の漢民族の男性の大半に該当する話だと思います。
早い話が、戦乱の時代における、
民需・軍需の供給の主要な担い手の方々のカッコウです。
なお、平仮名の読み方は、
私がIMEパッドを参考に、便宜上付けたものでして、
公用ではありませんので念のため。
早速ですが、下の拙いイラストを御覧下さい。
大体、このような装束が、
当時の下層社会の皆様の日常的なものであったようです。
上は粗末な上着・(短)褐(たんかつ)、あるいは、薄手の・襦(じゅ)、
下は股下の短いズボン褲(こ)。
こういう上下の組み合わせを総称して、
「襦褲」(じゅこ)と呼びます。
1、漢民族の象徴?!緇撮
以降は、部位ごとの衣類について、
上から順に説明していきます。
まずは頭―頭髪について。
漢民族は昔から髪を結う習慣がありまして、
これを文明人の誇りとしていました。
例えば、『聖闘士星矢』や『天地を喰らう』なんかの古い漫画で
髪をそのまま伸ばした美形が沢山出て来ますが、
ああいうのは、当時の漢の社会では、
いくらイケメンの中国人でも
北京原人さながらの野蛮人の類になります。
それはともかく、
髪の結い方の筆頭格に、緇撮(しさつ)というのがあります。
頭頂部で髪を結い、布で撒くというもの。
髪の結い方や布の巻き方は色々あるそうな。
ドラマ『Three kingdom』では、
数多の登場人物の結い方が、見事なまでに同じでしたが。
で、こうやって髪を結った後、
その上に色々な被り物をする訳ですが、それは後日紹介します。
2、何ともボロい標準服・短褐
続いて、上半身の衣類の短褐。
その前に、襦褲の「襦」について説明します。
襦とは、要は、襟元で合わせて帯を締める一重の着物のことです。
丈の長さは、長い物は膝まで、短いものは腰まであります。
袖の長さも色々です。
夏は薄手で短いものを着ていました。
右側を奥に、左側を手前に着るのを「右袵」(うじん)と言い、
漢民族の習慣。秦代からの話だそうな。
因みに、その逆は左袵。これは所謂異民族の方々の習慣。
で、この襦と形状は同じで、
粗悪な厚手の生地を繋ぎ合わせて作ったものが「(短)褐」。
材質は、糸(屑糸の類)・麻・毛。
また、秦代には、
庶民は白地以外の上着は禁じられていましたが、
漢代の場合は、被り物の色によって身分が決まっておりました。
詳しくは、被り物の紹介の折に説明したいと思います。
さて、この他、防寒用の上着として、
「裘」(きゅう)と呼ばれる粗悪な毛皮の上着、
あるいは、「衫」(さん)と呼ばれる夏陽の薄手の上着があるのですが、
こういったものも、「襦」共々、後日、図解出来ればと思います。
また、上半身の衣類全般の話として、
襟・裾は双方異なる生地を用いるのが決まりでして
これが無いものは最低の質のものとされました。
なお、帯については、
当時の庶民は、帯というよりは縄のようなものを巻いていたようです。
私の翻訳が不味くなければの話ですが。
3、男女兼用のズボン・褲
続いて、下半身の衣類である褲について。
趙の胡服騎射以降、
中原には漸次、ズボンが普及していきまして、
既に秦代の段階で、ブルーワークと兵卒はズボンが定着していました。
さらには、前漢の終わり頃には、王朝の法令により、
宮中でも男女問わず、漢服と併用して着用していました。
当初は、男性の場合は股下のないもの
(今日では、畜産の労働者等が使うもの等)を
下着として穿いていましたが、
後漢の頃には、男女を問わず、
股下のあるものとなっていました。
因みに、知識人層の装束は、
「袍」(ほう)や「深衣」(しんい)と呼ばれる
上下一体の一重の着物でして、
この下着としてチャップスのようなヒワイなズボンを穿く訳です。
これに因みまして、
女性の方は、「襦裙」(じゅくん)と呼ばれる、
上は襦、下はスカート、という装束が、
身分を問わず標準のスタイルでした。
この下着として、褲を穿くのですが、
現存するものの中には絹織の厚手で艶やかものものありまして、
察するに、今日で言うところの、
レギンスとストッキングの中間のようなもの
だったのかもしれません。
また、アウターとしては、
身分の高い人々は、男性同様、袍や深衣も着ますが、
これらは当然ながら、男女で形状が異なります。
因みに、男のパンツは、
「犢鼻褌」(とくびこん)というフンドシや、
「小褲」(しょうこ)というショート・パンツの類を穿いていたそうな。
この「犢鼻褌」、
三国時代の少し後の北魏時代の挿絵は
日本の時代劇でも御馴染みのフンドシなのですが、
それ以降の時代は、現物となると、
一物を隠すだけの寂しいものとなりまして、
こういうのを見ると、
当時から色々な形状のものがあったのかもしれません。
4、質・形状共にピンキリの靴―履・舃
最後に、靴(鞋)、あるいは靴下(袜)について。
当時の鞋は二種類ありまして、
一重底の鞋を「履」(り)、二重底の鞋を舃(せき)、
と言いました。
数の上では、大半は「履」。
草鞋から絹糸の鞋までピンキリです。
「舃」は、底が木で出来ていたり、
泥除けの為の歯がある―今日で言うところのゲタであったりしまして、
綺麗な絵柄や紋様の類が入っていたりします。
こういうものは、当然ながら、
洛陽や長安の富裕層が履くような高級品です。
で、靴についても、身分上の制約がありまして、
秦代には庶民は絹の鞋は禁止で、
麻等で出来た粗悪な鞋を履き、
そのうえ五人組で同じ紋様のものを使ったそうな。
庶民の場合、大抵は、草鞋か素足が標準です。
さて、漢代に入ると、「履」の一種として、
庶民の味方の「鞮」(てい)と呼ばれる革靴も登場します。
とはいえ、
やはり代表的なものは草鞋のようでして、
当時の言葉で「不借」(ふしゃく)と言います。
三国志演義で劉備が商ったアレで作ったものです。
もっとも、県令の孫で遊学するような財産のある人が
本当にああいう商売をしたのかどうかは分かりかねますが。
また、草鞋を除く古代中国の靴全体の話として、
材質を問わず、走るのに向いた堅牢な作りではあるものの、
一方で、口が広く脱げやすいことで、
靴底から紐を通して縛る必要があったそうな。
後、当時から靴下もありまして、
これも材質は生糸から麻までピンキリです。
また、ゲートルの類もあるのですが、
靴と靴下やゲートルとの類との着用方法や形状が
文献からはイマイチ判然としませんが、
何とか自分なりに再現を試みようと思います。
おわりに
以上、三国志に出て来るブルーワーカーの装束について、
頭から足まで一通り説明しましたが、
モノの本によれば、
武装を外した兵隊も、履物を除いては、大体こういうものだそうな。
また、これはあくまで基本の形でして、
当然ながら、
季節の変化や、農作業や戦争を含めた遠出等の用途によって、
衣類や履物の着用方法が変わって来る訳です。
次回からは、
こういう話も含めて、
部位ごとの装束や、防具、女性・富裕層の衣類等について
出来る限り図解していきたいと思います。
【主要参考文献】
林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
朱和平『中国服飾史稿』
馬大勇『霞衣蝉帯 中国女子的古装衣裙』
周錫保『中國古代服飾史』