はじめに
三国時代の編制単位もさりながら、
石井仁先生等の気鋭の先生方の素晴らしい論文を
PDFや最寄りの国立大学の書庫に眠る紀要等で漁る(?!)うちに、
都督や護軍、伍士のような軍隊関係は元より、
黄巾やら山賊の話やら馬や家畜の話やらと、
他にも色々とやりたいことが増えて来たのですが、
そうしたものを図解して
或る程度の臨場感なり説得力なりを持たせて説明するとなると、
その種のイラストを描こうとする際、
私にとって、必ず突き当たるのが、
当時の武装・作業着・普段着・礼装、といった服飾の問題です。
ところが、この時代、
モノの本によれば、
軍装どころか、服飾関係という点でも、
中国史上における断絶期・過渡期だったようでして、
チャンバラで言うところの江戸時代の小袖というように、
この時代の定番はコレだ、というものを特定するのが、
結構難しかったりします。
そこで、今回は、
以降、何回かに分けて行うであろう後漢から三国時代の服飾について、
そのアウトラインめいたものについて綴ることとします。
1、三国時代における戦争と服飾の関係
さて、まず、ブログのテーマである戦争と服飾の関係について。
イタリア・モデルの洒落たナチの軍服のように、
軍服も(プロパガンダとしての)ファッションだ、
というこだわりでもなければ
一見関係なさそうなものですが、
少し細かくその内情を調べると、
関連性も少なからず見え隠れします。
例えば、三国時代の軍隊は鎧の装備率が低かったようです。
その理由として、
戦乱の継続による深刻なモノ不足がまず挙げられます。
加えて、南方の場合は、
山林・河川が多く、
密集隊形を組んで馬や弓で戦争するという風土ではありません。
その結果、鎧を装着していたのは概ね乗馬する指揮官クラスであった模様。
となれば、労働者階級の日常の普段着や作業衣の類が
そのまま軍服と成り得る訳で、
ここに軍装と服飾の多大な接点を見出すことが出来ます。
また、服飾史という観点から見ても、
例えば三国志の時代、というよりは魏晋南北朝時代という枠組みで見た場合、
特に三国鼎立の辺りからは、
北方の異民族の服飾の流入が非常に盛んになったことで、
軍装との関連で言えば、例えば、
異民族の鎧の形がアウターのデザインに流用されるという現象が見られます。
例えば、兵装の変遷等、詳しくは、
稿を改めたいと思います。
2、服飾史上の断絶、後漢末と三国時代
これに関連して、
モノの本によれば、中国の服飾史上の断絶は、
事もあろうに三国志のド真ん中にも潜んでやがりまして、
愚見として、
考証家の仕事を煩雑にしているのは、
恐らくこの点だと推測します。
さて、中原が所謂異民族の服飾を取り入れる、というのは、
何もここ100年位のチャイナドレスに限った話ではありません。
恐らくは趙の胡服騎射の時代を皮切りに、
遥か昔から異民族の服飾が中原に流入していました。
少なくとも秦代には「異民族」の服飾を利用する形で
兵士・労働者はズボンを履いており、
前漢の終わり頃には、王朝の号令を契機に、
宮廷の女性も下着としてズボンを履いていました。
下着と言っても、今の感覚で言えば、恐らく、
レギンスやスパッツとストッキングの中間位の感覚だと思います。
その理由のひとつが笑えまして、
要は乱交を戒めるためだそうな。
確かに、外戚関係のトラブルが多かった時代の話です。
因みに、男性はと言えば、
股間にフンドシを締めていました。
定番の越中フンドシ型以外にも、どうも形状は色々あるようですが。
ですが、こうした「異民族」の服飾の中原への流入が、
単に機能的な利点を取り入れる、というレベルではなく、
文化的な交流というレベルで大々的に起きたのが、
三国鼎立の時代以降の御話。
面白いことに、鎧の装備率が低かった南方(つまり孫呉)でも、
北方の服飾は結構流行ったそうな。
よって、「三国志」の時代の軍装・服飾、と、
一口に言っても、
黄色い頭巾が流行った時代と孔明軍師の頭巾が流行った時代とでは、
恐らく、服飾の様相が少し異なるのではなかろうかと思います。
帽子や靴等、色々アイテムが増えまして、
こういうのを後日、
(自作のヘッタクソな)イラスト入りで紹介出来ればと思います。
また、兵装という意味でも、
今日で言うところの
兵器の研究開発は有事の1年は平時の10年に匹敵する、という公式は、
その具体的なスパンの長さはともかく、
後漢・三国時代にも当てはまるようです。
戦争の基本は戦国時代には確立したとはいえ、
個々の兵器のアップ・グレードは着実に進んでいます。
流行の得物の形はこの時代と戦国時代とは少し異なっていますし、
鎧についても、後漢に比して、
三国鼎立以降は、北方の「異民族」の影響を強く受けています。
3、前の時代との連続性
逆に言えば、殷周の時代からあるような衣類も当然あり、
三国志の時代との連続性もある訳でして、
その中には、輸入モノのアイテム以外の袷だの襦だのといった
後の時代にも続くようなものもあります。
それどころか、
身分によって着用出来る帽子や服装の色が決まっており、
隣保制度の五人組で同じ柄の入った鞋を履いたり、
庶民が冠(種類で職務を表す)を被ったら刑罰を喰らったりという具合に、
王朝らしいと言えば王朝らしい身分制度もありまして、
それを逆手に取ったのが黄巾の方々の模様。
で、こういうものは、
漢代に入ってからの変化と言えば、
儒家が天下を取ったことで、
官服や礼装の類が袖が大きく仰々しいスタイルになったのが特徴ですが、
これも後漢になり少し簡素になりました。
もっとも、こういう漢服の基礎をなすものでも、
その形は一様ではなく、
時代ごとに変遷するものもあります。
おわりに
最後に、以上の話を簡単に整理します。
まず、三国志の時代の服飾的な背景として、
漢服としてのスタイルはこの時代にはかなり定まって来てはいるものの、
その一方で、
大体秦代辺りからの延長としての後漢末までの服飾と、
三国鼎立以降の魏晋時代とに服飾史的な断絶があり、
最大の要因としては、
「異民族」の服飾の大々的な流入が挙げられます。
これは、軍装・平時の服飾双方に多大な影響を与えています。
加えて、鎧の装備率の低さが、
服飾と軍装の接点を大きくしています。
そして、上記のような話を、
以降の回で、
もう少し詳しく綴ろうと思い立った次第です。
―で、余談ながら、
こういうものを描く身としては、
タダでさえ私に画才がないうえに、
この時代の遺物の類は
後世の写実的な遺物に比して、
これまた描き手泣かせのヘッタクソな人形や絵の類で
そのうえ不明な部分も多いことで、
説明に際して、
例えば、文献の記述内容との齟齬を来さない範囲で、
(考証の怪しそうな)ドラマや映画等の映像も
参考にしようと思います。
誤りがあれば、
出来れば気軽に御指摘頂ければ幸いです。
なお、以下の図は、
あちらの服飾関係の文献を目にした際、頻出した単語につき、
宜しければ御活用頂ければ幸いです。
【主要参考文献】
林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
朱和平『中国服飾史稿』
馬大勇『霞衣蝉帯 中国女子的古装衣裙』
『戦略戦術兵器事典1』