【小記事】図解、武帝時代末期の鎧

 

はじめに

今回は、いよいよ鎧の図解と参ります。

具体的には、漢代は
武帝時代末期とされる鎧のひとつで、
前開きの鉄製の札甲です。

保存状況が割合良かったことと、
先行研究にも恵まれたことで、

今回のようなレベルで
描き起こすことが出来ました。

 

1、秦代と変わらない基本構造

それでは、早速、
自筆のアレなイラストを御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

 

【追記】

参考にした文献の
肝心な部分を
読み飛ばしておりました。

で、今更それに気付いて
イラストを描き直した次第。
恥かしい限り。

なお、当時の鎧の高さは
大体70cm程度。

身甲の甲片の高さが4段で
垂縁が付くのであれば、

1段10cm位(訂正前は23.4cm)
でないと計算が合いません。

また、披膊の甲片の段数は、
図では4段になっていますが、
正確には6段です。

【追記・了】

 

まず、全体的な特徴について。

以前の記事で、

秦の歩兵用の鎧を例に、

古代中国における
鎧の基本構造は
この時代に定まった、という、

楊泓先生の御説を
紹介しましたが、

前漢は武帝時代末期頃とされる
この鎧についても、
それは該当するかと思います。

ひとつ目は、

身甲(胴体)部分の
甲片の綴り方です。

具体的には、

まず、横一列に環状に繋ぎ、
その複数の環状の甲片を縦に繋ぐ、
という手順です。

その際、上下に甲片を繋ぐ場合は
上の甲片を表に出し、

その甲片の下の部分と
次の段の甲片の上の部分を
接合します。

ふたつ目は、
可動部の甲片の繋ぎ方です。

具体的には、

身甲部分のような固定部とは逆に、
下の段の甲片を
に出します。

この鎧の場合は、

披膊(腕の肘より上)
・垂縁(裾)部分が
魚鱗甲になっていますが、
原則は同じです。

因みに、甲片の厚さは、

サイト制作者は
大体1ミリ程度と踏んでいます。

その根拠として、

図にもある通り、
重さと面積が
分かっていることで、

炭素鋼の比重を
7.87(鉄も、ほぼ同じ)と仮定して、
方程式でその数字を
弾きました。

もっとも、この数字も、

恐らくは、
腐食分やら夾雑物やらで
正確ではないことで、

薄い、という程度の
目安になさって頂ければ
幸いです。

 

2、特徴的な前開きと盆領

次いで、

この時代の特徴と思しき
部分について。

具体的には、前開きです。

実は、同じ時代の
似たような魚鱗甲の
復元品の鎧も、

前開きのタイプがありました。

しかしながら
サイト制作者の管見の限り、

少なくとも
後漢から南北朝辺りまでは、

兵馬俑等の出土品や
当時の壁画等からは、

前開きの鎧を
見なくなりました。

構造自体が
実戦的ではなかったの
かもしれません。

また、この鎧の兵科ですが、
モノの本(『図説 中国の伝統武器』)には
騎兵とあります。

垂縁部分の尻の部分が
欠けているのが
気になりますが、

これは、欠損が構造上の仕様かは
分かりかねます。

因みに、サイト制作者は、

秦代の戦車兵の鎧にも
大きな盆領が
付いていることで、

やはり斜陽の時代の
戦車兵のものと見ています。

弓を引いたり俯瞰するには
死角が多いのも
気になります。

さらには、秦・前漢および魏晋の
騎兵の鎧の一部には、

肩や袖を守る部位が
ありません。

また、秦・前漢時代については、

強力な国力を反映して
精巧な兵馬俑や現物が
残っていまして、

魏晋の鎧のひとつは、
有名な両当甲です。

 

3、後漢・三国時代への技術的布石

最後に、
『三国志』との接点ですが、

少なくとも、

この時代から
魚鱗甲が存在したことは
注目に値します。

後漢時代の
数少ない出土品の鎧兜
(華北の鮮卑の墓から出てるんですワ!)や
西晋時代の兵馬俑にも
魚鱗甲のものが存在することで、

甲片の繋ぎ方自体等は、

当時そのままとは
言い切れないにしても、

大いに参考になろうかと
思います。

今回は、結論めいたものは
整理しません。

以降、いくつか、
参考になりそうな事例を
紹介しつつ、

後漢・三国時代の技術についての
主要なパターンを炙り出せれば
考えております。

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】
楊泓『中国古兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』

カテゴリー: 兵器・防具, パーマリンク

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